第9回

のだ千年の松

大澤継弥さん(岩手県野田村)/だらすこ工房 代表、中原郁子さん(岩手県野田村)/くる美人 代表、大沢航平さん(岩手県野田村)/グリステン、茜谷有紀さん(愛知県名古屋市)/VSMYBLUESリーダー、坂本久美子さん(岩手県野田村)/民宿 苫屋

千年語り継がれる“新興”への想い

岩手県野田村の地図はこちら

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昭和に造成された海岸林が教えてくれたこと

岩手県の事業として昭和6年、7年に飛砂防備保安林として植栽された岩手県野田村の黒松は、昭和8年3月3日の津波で殆どが流出しました。

岩手県は昭和8年5月から改めて津波災厄対策としての植栽を行います。野田村では前浜地区に15.4ha、米田地区に2.9ha、全長2kmの事業でした。

翌昭和9年、10年と岩手県は稲が育たない大凶作に見舞われます。この時から黒松防潮林は津波災厄対策としての働きだけでなく、オホーツク海から吹く冷涼な北東風である“やませ”を防ぐという新しい使命も担うようになりました。

それは低温で塩分を含んだ潮風を幾らかでも喰い止め、稲がやませに曝される時間を少なくするというもので、村民はまだ苗木の黒松に未来への希望を託しました。

人々の願いと祈りと海風を浴びながら育つ黒松防潮林は、第二次世界大戦時には枝葉の下にじゃが芋を実らせ、村民の飢えを凌いでくれました。

約1万本と言われた黒松防潮林は、平成23年3月11日の東日本大震災で村を守りながら倒れました。この時の波の高さは最大約18mで、被災地では極めて高い津波が記録されています。第一波で起き上がった黒松は第二波で倒れ、続く第三波では大地を抉られたまま根本からなぎ倒されました。海岸から押し流され、捩じり裂かれた姿で国道に横たわる残骸と化した黒松防潮林は、津波の恐ろしさと共にこれまでの温もりも私達に伝えてくれました。

かつて防潮林があった場所。平成27年8月現在の様子。右の写真の奥の白い壁が防潮堤(撮影:大沢航平さん)

村内に広がる海岸林再生の輪

それはただそこに在った見慣れた古里ではなく、壊れた暮らしの姿です。泥水に汚され裂かれた黒松は「守ってくれてありがとう。」と声を掛けたくなる程痛々しいものでした。

2011年8月、「民宿 苫屋」の坂本久美子さんが個人で山小屋を持っている大澤継弥さんに「流された被害木で木工品を作って頂けませんか?」とお声掛けをして「だらすこ工房」は始まりました。「だらすこ工房」代表の大澤継弥さんの自宅は全壊でした。工房を始めるにあたって大澤さんは20数年かけてコツコツと造った小屋を開放する事に決め、「仮設の集会場は母ちゃんばっかりで行くとこがねえ。」と嘆いていた仲間達を誘い商品作りを始めました。

苫屋の坂本久美子さんと だらすこ工房の大澤継弥さん。茅葺きの民宿 苫屋にて。
昭和20年生まれの大澤さんは「黒松と共に育ったから、遊び場を失くしたようだ。子供の頃は地区ごとに縄張りがあって、黒松防潮林のなかに基地まで出来た。倒れた松が村を守ったから一本でも多く植えたいの。」と、昔を懐かしむように話してくれます。その想いが「のだ千年の松」に売り上げの一部を寄付することにさせたとも言います。震災後強制立ち退き区域に指定された海岸沿いの国道側に生まれ育った大澤さんにとって、黒松防潮林は自らの人生の一部であったと言います。

だらすこ工房(左)と木工品の一部(中央・右)
先人の植えたくるみを加工販売する「くる美人」も2011年9月、坂本さんの声掛けで始まりました。「くる美人」代表の中原郁子さんは「防潮林はあって当たり前だと思っていたから、津波の後に大切さに気付きました。」と静かに呟いた後「のだ千年の松」に売り上げの一部を寄付すると決めた理由については「これから植える苗木もいつか津波、塩害予防の他に皆の憩いの場になれたら、との気持ちです。」と教えてくれました。

「くる美人」に通う今年78歳になられる被災者の米田ユキ子さんは、仮住まいを経て2014年、流された家より道路一本分内側に入った所に新しい住居を構えました。60年近く住み慣れた家より10m以上海から離れたにも関わらず「道路に出ると空気が違う。今までより塩の臭いがきつくなった。」と姿を消した黒松防潮林を心に浮かべながら話してくれました。米田さんにとっても黒松防潮林は瞼を閉じれば見える“美しく温かいふる里”の姿であるようです。