第5回

鈴木陽一さん(福島県相馬市)/元磯部行政区区長、相馬市資料調査協力員 杉目一郎さん(同上)/相馬双葉漁業協同組合 松川浦支所 支所長

人と自然が育んだ美しい景観が、観光資源に。
全長7キロのマツ林は「津波除け」にもなった。

砂州がつくる生態系豊かな汽水湖

震災前の松川浦

福島県相馬市の北東に位置する松川浦は、磯部地区から北に発達した大洲と呼ばれる砂州によって鵜の尾崎との間の湾が隔てられ、潟湖※(せきこ)となったところ。大小さまざまな島が浮く風光明媚な景観は相馬藩主に好まれ、遊休所とされていました。日本三景の松島にならって「小松島」と例えられ、昭和26(1951)年3月、県立自然公園に指定されています。県内唯一の潟湖、東北最大級の干潟であり、海水が松川浦の淡水に入り込む汽水域は海苔養殖に適し、ヒヌマイトトンボも生息するなど福島県では尾瀬に続いて生物多様性が高いとされています。東に太平洋の荒波、西に静かな干潟の松川浦を望む、白砂青松の砂州に整備された直線道路は、大震災前まで行われていた松川浦大橋マラソンコースや、ドライブコースとしても人気がありました。古くは「松川十二景」として和歌にも謳われ、日本百景、日本の渚・百景など様々な百選に名を連ねる景勝地を作り上げた要素の一つが緑濃いマツ林。保健保安林でもあり、暮らしに近い存在として人々に親しまれていました。

※潟湖:湾口に発達した砂州によって外海と切り離されてできた湖

周辺地図

村を守る寄木神社を見上げる鈴木さん

大砲を隠す“要塞”となったマツ林

戦時中、松川浦のマツ林に日本軍のトーチカや砲弾倉庫、兵舎があったことを、郷土学習資料「磯部地区に歴史を訪ねて」(平成21年[2009]年発行)で知ることができます。この冊子の中にある手書きの地図を描いたのは、相馬市資料調査協力員の鈴木陽一さん(77歳)。子どもたちに地域の史跡、伝承、地名、開発の歴史などを伝えたるため、地元の郷土史出版委員会が発行したこの冊子で、鈴木さんは多くの項目を調査、執筆しています。

磯部地区に歴史を訪ねて

松川浦の南の端に位置する磯部地区。その中でもマツ林に最も近い場所に住んでいた鈴木さんは、戦時中の様子も記憶しています。「マツ林の中にはトーチカが4基あり、米軍のグラマン機が飛んで来ると、みんな直径40~50センチのマツが並ぶ林に隠れました。まっすぐ育っているマツは少なく、蔵王と鹿狼山(かろうざん)から吹き下ろす“相馬のからっ風”を受けて、海側になびいて伸びているのがほとんど。アカマツが多く、日本軍はアカマツ周辺にはえる松茸を採っていたようです」

マツ林内には営林署官舎もあって常時監視されていたため、地域の人がキノコを採るなどして荒らすことはなかったといいます。終戦を迎えて一般に解放されると、春、秋を中心に顔を出すキノコは、地域の暮らしを支えました。「男性は、戦地から戻ってきても仕事がなかった時代です。うちのおばあさんも、ガンガラ部隊と呼ばれる行商をしていました。キノコはもちろん、浜で獲れる小魚、ザガキと呼んでいた小振りな牡蠣、ホッキ貝、ワカメ、海藻類をブリキの背負い缶に入れて、各地に行商していました」

磯部から北に延びる直線道路をはさみ、海側の県有林、内陸側の国有林には、防潮林、防風林としてクロマツが植栽されていました。昭和28(1953)年頃、高校生の鈴木さんはマツ苗植樹に関するアルバイトをしました。「モッコ(土石運搬に用いる網袋)で土やたい肥、苗を1日運んで、140円がもらえた。当時はアイスキャンデーが10円くらいだから、140円といえば定食も軽く食べられる金額。短期間だったけど、学生にとってはありがたい収入でした」

旧磯部村は肥沃で田の実りは多く、麦や甘藷(サツマイモ)、大豆などの畑作もでき、養蚕業も盛んでした。鈴木さんの父は養蚕の指導に当っていたことから「ケエゴ(蚕)の先生」と呼ばれて地域の信頼を集め、戦時中は軍の副隊長を務め、終戦後に海苔の養殖を手掛けました。鈴木さんは高校を卒業すると海苔養殖を手伝った後、工場長として建設会社に勤務。退職後は市の資料調査協力員として活動するとともに、地区の老人クラブ会長として、仲間の皆さんと一緒に、磯部地区海岸マツ林の中に建つ「福島県相馬海浜自然の家」を頻繁に訪れていました。

海苔養殖の竹竿が並ぶ浦

失われた記録を、記憶で引き継ぐ

昭和50(1975)年に建てられたこの「自然の家」は、子どもたちや地域の方々が自然に触れながら、オリエンテーションなどを楽しむ場として親まれました。木の蔓を集めてリースを作ったり、マツ林の中でオリエンテーリングをしたり、カヌーで中州に渡ってキャンプをする人もいました。宿泊する子どもたちが、懐中電灯を頼りに海辺まで往復するナイトハイクでは、マツ林の枝を揺らす風の音、日中とは違う暗さ、海の匂いなど、五感を震わせる体験をしました。

主任社会指導主事として「自然の家」に勤めていた髙橋誠さんは平成23(2011)年3月11日、訪れていた老人クラブの皆さんを見送った後、地震に見舞われ、津波の情報を聞いて「自然の家」から高台にある磯部小学校へ車で逃げました。「高台から津波は見えず、ガラガラガラ!という大きな音で、雷が鳴ったのかと思いました。海の方がもうもうと上がる土煙で真っ黒になり、しばらくしてスーッと明るくなると、大量の黒い水が家やいろいろなものを飲み込みながら陸地に流れ込んでいくのが見えました。翌日の3月12日には、100人を越えるサッカー少年が自然の家を訪れる予定でしたから、もし震災が翌日だったら子どもたちを無事に守れたか、今考えてもゾッとします。3.11で失われた命、託された命があり、それぞれの思いがあることを考えてしまいます」

耐震構造で鉄骨造りである「自然の家」の外観はそのまま残りましたが、中には紙切れ1枚残っていませんでした。磯部地区は約8割にあたる460戸が流され、人的被害も少なくありませんでした。震災後の8月、髙橋さんが校長として着任した飯豊小学校は、今年度から福島県内の防災教育推進事業協力校3校の一つに選ばれ、児童による防災マップ作りなど、防災教育に取り組んでいます。

長らく区長などを務めていた鈴木さんは、平成21(2000)年頃からマツクイムシによる被害を受けたマツが伐採され、林内にぽつぽつと空間ができたことが気になっていました。そこで、「自然の家」の宍戸元所長とともに、平成23(2011)年5月にマツ林に関するシンポジウムを行う準備を進めていました。最も太いクロマツは直径80センチ以上、樹齢300~400年と見られ、アカマツも直径60センチのものがあり、40センチ以上のものであれば相当数あったことなどを資料にまとめ、写真も撮って整理していましたが、これらの資料はすべて津波に流されてしまいました。

鈴木さんの自宅近くにあった船溜まり

しかし今、鈴木さんの元には地元の人たちから、わずかに残った地域の資料や写真が持ち込まれています。「鈴木さんは託されているんですよ。これまで地域の歴史を調べてきた鈴木さんには、せっかく残った大事な資料を守ってほしいって。飯豊小や地域の子どもたちにも、鈴木さんの記憶を伝えて欲しいですね」。「自然の家」勤務時代、周辺を毎日のように散歩する鈴木さんと顔を合わせ、鈴木さんの地域への深い思いを知る髙橋校長は、そう考えています。

危険区域に指定されて住むことが叶わなくなった磯部地区ですが、大洲では海岸林再生のための盛土工事等が進んでいます。「生かされた人生だ。やれるだけ、尽くしたいと考えているんだ」。失われた記録が、次の世代の記憶として、引き継がれようとしています。