第3回

鈴木善久さん(岩手県陸前高田市)/「高田松原を守る会」会長

350年間、身近にあった美しい松原
残った種から苗木を育て、みんなの「希望」を灯したい

全長2キロの砂浜を美しく彩った7万本の松

リアス式海岸の三陸では珍しい全長2キロにわたる砂浜があり、その背後にクロマツ・アカマツからなる7万本の松林が風光明媚な白砂青松の風景を誇る高田松原。東日本大震災の大津波と地盤沈下により一変した景色は印象に深く、それだけに、たった1本残った「奇跡の一本松」は、いまも被災した多くの方に希望を灯す存在となっています。松原は地域の人たちにとっては身近な存在だっただけに、その喪失感は大きなものがありました。

高田松原の地図

震災前の松原

「子どもたちは遠足や潮干狩り、海浜学校など、ことあるごとに松原に足を運び、その度に先生たちから『江戸時代には菅野杢之助(かんのもくのすけ)さん、松坂新右衛門さんという方がいて…』と、私財を投げ打って松原を守り育てた先人の苦労話を聞かされました。だから、陸前高田を離れて都会に仕事に出ている人たちも、お盆にお墓参りや仏様を拝みに帰ってくると、必ず松原に行ったもんです」。

高田松原を守る会(以下、守る会)の3代目会長を務める鈴木善久さん(69歳)は、市街地から1キロほどの場所にあった高田松原は、地域の人にとっては折りに触れて足を運ぶ身近な存在だったと強調します。毎年6月には松原の保全に力を尽くした二人の先人に対する感謝祭が行われ、夏は花火大会や海水浴客で賑わい、マツに囲まれた遊歩道は憩いの場所であり、隣接する野球場やサッカー場を訪れた人も常にその存在を目にしていました。日本百景、白砂青松百選、日本の渚百選などとして名高く、年間約40万人もが訪れ、名勝地として町の名を全国に知らしめる存在でもありました。

高木から草本まで200種の植物が育った豊かな地勢

鈴木さん

鈴木さんは小学生の頃、高田松原の海岸や、そこに流れ込む気仙川で泳いだといいます。幼い頃から慣れ親しんだ松原に対する愛着が高まり、昭和34(1959)年の中学3年生の時には生物部顧問の千葉高男先生の指導の下、部員仲間と3人で「高田松原の植物群落の観察」をまとめあげ、学生科学賞の全国審査で3等賞に選ばれました。アカマツやクロマツの植林エリア、ヨシやヒメガマの群落、ハマナス植栽地などの地図を手描きし、マツだけでなく、海浜植物や下層植生も豊かだった環境を詳細に記録したものでした。

理科好きの鈴木さんは、思いそのままに中学校の理科教諭に。昭和54(1979)年には岩手県立教育センターで1年間、中学校理科長期研修生となって再び松原を調査研究し、松原の南側にはクロマツよりアカマツが多かったことなどを明らかにしました。

平成7(1995)年からは委嘱されて市立博物館の専門研究員も務め、平成17(2005)年3月に学校長を退職すると、高田松原の海浜植物について自身にとっては3度目の調査を実施。翌年には、夏期に200種類を超す植物が、高木層、亜高木層、低木層、草本層などの階層構造を形成し、互いに関係しあいながら自然環境の違いや変化に適応して群落を形成していることを報告書にまとめました。実に3度にわたり、継続的に高田松原の植生をまとめた詳細な記録は、その存在が失われた今、当時を振り返ることができる貴重な資料でもあります。地元に住む人ならではの関わりの長さ、深さは「海岸林と人の関係」を象徴するものであり、高田松原を最も詳しく知る方のお一人といえます。

鈴木さん中学時代の資料

鈴木さん中学時代の資料

「今年は雪が多かった」という平成26(2014)年2月末、松原があった場所と広田湾を見渡す高台に、高田松原に由来する幼いクロマツの苗が雪の間から元気な姿を見せていました。「松原は、生まれ育った土地にずっとある財産、故郷の大事な宝だよ。先人から受け継いだこの財産を世代を超えて受け継いでいかないと」。震災から3年を迎え、鈴木さんは守る会会長として、松原再生に向けた思いを新たにしています。