第2回

鈴木征治さん、松島宏佑さん(宮城県亘理町)/「わたりグリーンベルトプロジェクト」運営委員長、事務局長

「おらほの森」をもう一度
海岸林をシンボルに人がつながり、地域の新たな歴史をつくる

手掘りで地盤を上げ、集落の100人ほどが一斉に植林

宮城県仙台市の南へ約26kmに位置する亘理町では、太平洋に面した長さ4km、幅400mの帯状に広がる海岸林が、背後に広がるイチゴ畑や水田を守っていました。東日本大震災で大きく傷ついた海岸林の再生計画を町民主体で考え、植林と、その後の維持管理も自分たちが手掛けることで失われた地域のつながり、コミュニティを新たに結び直そうという試みが進んでいます。

亘理町、「鳥の海」を含めた海岸林

「ヤマの思い出といえば、共同作業だ。毎年、砂浜さマツを植える時には人夫が100人くらいも集まって、4、5日かけてマツ苗を植えたもんだ。植えた後には杭を打って、風除け、砂除けに簾網(すあみ)で囲った。今みたいな重機はなかったから手掘りで地盤を上げて苗を植えるところを高くして、排水用の堀も掘った」。亘理町の北側、大畑浜の集落でイチゴを育てながら、区長、森林保護組合長も務めた鈴木征治さん(70歳)は、海岸林を「ヤマ」と呼びます。沿岸部は海側から南北に三筋になって県有林、町有林、国有林と所有者が分かれており、集落をあげて植林したのは1964年、野鳥が飛来する汽水湖「鳥の海」に接する県有林地が最後でした。その記憶は、宮城県が県内全域で進めた海岸林植栽の歴史と重なります。植林や下草刈りなどの作業労賃は、農業主体の地域住民にとって貴重な現金収入でした。

「津波の後、樹木がどう耐えたかと思って、しばらくしてから見に行った。震災の前は、海岸林がこんなにやられたことはなかったっちゃぁ。でも、大畑浜のマツはよく残ってたな」。大畑浜の自宅と農地が津波被害を受け、仮設住宅に暮らす鈴木さんは、手掘りでかさ上げした高い地盤、県の指導で密植したことなどから大畑浜のマツ林の一角が津波に耐えたと考えています。

「苗、早ぐ育て」と祈りながら松林で遊んだ日々

鈴木さん、大畑浜での顔

「ヤマから集めた松っぱ。あれは風呂焚きには最高の燃料になる。昔は家族多いから、みんなが風呂に入る時間も長くかかったけど、松っぱは炭火になってもなかなか消えないんだ」。

「ヤマでキノコ採って生計立ててた人はいくらでもいた。朝早くキノコを採って10時くらいの電車に乗って仙台駅前の原っぱの市場に行って行商していたバサマがいっぱいいた。若い人が採ってきた松露を売りに行くばっちゃもいだな」。

「ヤマで採れたアミタケも、最高にうまかった。ガラスの瓶に入れて塩漬けにして、しばらくしてから塩抜きして食べた。どこの家もそうやって食べてた」。

向こうに広がる海が見えないほどに松林が深かったヤマにつながる暮らしを振り返ると、鈴木さんはさまざまな記憶が止めどなくあふれ出します。「ヤマさ行ったら、マツの枝を折ったりしてはダメだよ。ヤマがなければ農耕はできないし、ここに住む人がいなぐなる。『植えた苗、早ぐ育て』って祈りながら遊べー」・・・土壌が砂質で米の反収が少ないため、いち早くトマトやイチゴの栽培を手掛け、家計を支えてきた鈴木さんには、子どもの頃に親やお年寄りから伝えられた「海岸林の大切さ」が身にしみていました。それだけに津波で激しく傷ついた海岸林は気にかかっていましたが、震災後は町の復興会議の委員として忙しく、ヤマの再生への思いは胸の底にしまい込んだままでした。そんな時、目の前に現われたのが松島宏佑さんでした。